降る雪に願えるなら 15




 脱ぎ捨てた漆黒の衣の横で、斎藤は濡れ羽色の髪を梳き華奢な白い体に触れ続けていた。

 朝の光が瞼にあたり、目を開ける。
 はっとして自分の左隣を見やる、が誰もいない。当然だ。
 斎藤がいるのは布団ではなくベッドの上、障子ではなくカーテンが外界と部屋を隔てている。
 完全に意識が冴えてから彼を襲ってきたのが猛烈な自己嫌悪。
 千鶴のことが気にかかりだしてはいた。
 昨夜、廊下で彼女が自分の手を取った時は刀のない心もとなさを埋める以上の充足を感じた。
 けれどよりによって千鶴を抱く夢を見るとは。
 後ろめたいにもほどがある。
 その上、千鶴への罪悪感を感じているのに頭から夢の情景が離れない。
 なぜ着物だったとか、どうして隠れるように行為を行ったかという詳細はもう碌に覚えていないのに触れた肌の感触や柔らかい体といったことに関しては現実感が薄れない。
 まるで本当に千鶴を抱いた後のようなこの心境でこれから、千鶴と顔をあわせ皆と土方が出資を始めた宮川道場を訪れる…。
 まずまともに千鶴を見る自信すらなかった。
 斎藤は生々しい感触が去るまでは彼女から距離をあけてやり過ごそう、という結論を下した。

 その道場は控えめに言っても『かなり』みすぼらしい建物だった。
 看板は傾いているし、壁は黒ずんだ汚れに覆われている。
 床は古くてもきっちり整えられているので稽古の障りにはならないだろうが…。
 道場内を見回した斎藤が門下に入って協力するという契約は早計だったかと考えていると土方が建設中の看板の出ている方を指差した。
「あっちのが完成間近の新しい道場だ。それまでは…ここで勘弁してくれ」
「土方さん、新しい道場の建築費を出してくれたことには感謝してますけどここを馬鹿にしないでもらえますか。これでも僕と宮川先生の二人でやってきた場所なんですから」
 そう言ってさっさと奥に入った沖田が一人の男を引っ張ってくる。
「先生、こちらが新たに門下に加わる人たちですよ。腕だけは保証しますからよろしくしてやって下さい」
「…総司にそれを言わせるとは腕前を見るのが楽しみだ。しかし…それなら相当の達人だろう…こんな道場でいいものか…」
「何言ってるんですか宮川さん。土方さんの援助もあるしこれから伸びるから良いんですよ」
「では…当道場の道場主を務めます宮川勝五郎です。ひとつよろしく」
 挨拶したのは闊達そうな体格のいい男だった。斎藤がその器を推し量っている間も土方言うところの『思い出してる組』が落ち着きなく彼を眺め、近藤がどうとか、改名がどうのと囁きあっている。
 簡潔に自己紹介を終えた斎藤の気にかかるのは師範代の沖田の腕だった。
 彼が斎藤と同等か、それ以上の腕を誇るならその師である宮川の門下に下る価値がある。
 あみだで決まった一回目の対戦相手が沖田になったことで、斎藤は心逸り、木刀をもつ左手に力が入る。
 勝負が開始された後の沖田は期待通り斎藤の鋭い攻撃をものともせず、際どい反撃を浴びせてくる。
 ほぼ、互角。どちらに流れるかわからない試合ができることが面白かった。
 一瞬も気が抜けない緊迫した戦い、斎藤は自分の方が長く緊張を保てる自信があった。
 ところが今この場にいる面子を考えればそれは誤算だった。
 沖田が隙を見せて誘ってくるので打ち込めば、壁際ぎりぎりに突っ込む形になる。
 それは折込済みだった。斎藤は自分ならすばやく反転して反撃することができる腹つもりで突っ込んだのだが、その先にいた千鶴が斎藤の視界に入る。
 窓から洩れる陽光がその微笑を照らして彼女には太陽の光が似合うと思わせる。だが斎藤は月光の下で艶めいて微笑む千鶴を連想した。昨夜見た夢の中の―。
 ぱあんっ。
 木刀のはじかれる音で斎藤は我に帰った。
 左手に握っていた木刀は斎藤から離れた床の上で転がっていた。
 彼と対していたのは集中を切らせることを許す相手ではなかったのだ。
 その後も原田と永倉、土方と平助、さらに籤をひいて相手を変えて対戦は続いた。互いに勝ったり負けたりを繰り返しながら、剣の腕は十分道場主に伝わったらしく、彼はしきりに頷いて斎藤や他の面々の腕前に感激していた。
 一休憩になると道場主は持ち前の気の良さを発揮して個別に話しかけその剣技を熱心に褒め称える。
 道場主が語りかけ終わるとその間こちらの様子をみていた千鶴に動く気配があった。
 今千鶴に話しかけられても困る。斎藤は休憩を外で取ることにした。
 さりげなく去る背後から声がかかる。
「おーい、山口どこ行くんだよ。紅白戦の組決めやるんだぜ?」
 永倉だ。唯一の『思い出してない組』仲間である斎藤が場を去って『思い出してる組』に囲まれるのは参るといった顔つきだった。
「動いて体が火照った。風に当たってくるから俺の分も紅白戦の籤を引いておいてくれないか」
 来週の道場完成祝いに、今日集まったメンバーを紅白に割り、団体戦を行おうという話になった。斎藤自身は特に誰と同じ色になろうとさした変化はない。他人まかせで決まっても異論なかった。それよりも、気を抜けば夢を思い出し千鶴に流れてしまう意識のほうが問題だ。
 道場内は肌寒い凛とした空気が流れているがそれでも足りない。外の冷たい風に当たって頭を冷やしたい。
 肩をすくめるものの、永倉は快諾し、斎藤を出て行くままにしてくれた。
 
 外は斎藤の期待したほど風があるわけではなかった。けれど冷え切った空気は吐く息を濃い白に変化させた。
 冬でも葉を落とすことのない常緑樹の幹に背をあずけ、意識を落ち着かせるために静かに呼吸する。澄んだ聴覚が道場内の喧騒と新道場の建設で響く音を拾う。ふと間近で枯葉を踏む音が聞こえた。
 閉じていた目を開けると千鶴が歩いてくる。
 まずい。と思った。
 千鶴から距離をあけるため、道場を出たのに二人きりになるとは一番避けたかった状態だ。
 どうしたものかと悩む斎藤に千鶴は歩み寄ってきて声をかける。
「斎藤さん、そんな薄着では長く風に当たっていると体を壊してしまいます」
 不安そうに見上げてくる顔は保護欲と抱きすくめたいような衝動まで掻き立てる。
 今、確実に外で頭を冷やす必要のある時間が長くなった。と斎藤は目元を押さえてから頭上の枝葉を見上げた。
「しばらくすれば戻る。お前は先に行け」
 突き放すように言い捨てても千鶴は引き返さない。
 それどころか質問をぶつけてきた。
「私を避けているのは…昨夜の話のせいですか?」
 こういう戸惑いに慣れていない斎藤の態度は露骨だったらしく千鶴に気取られていたと気づく。避けているのは事実だ。原因は違うが、言えるわけもない、否定する以外の対処が斎藤には思いつかなかった。
「そのようなことはない。気のせいだろう」
「では…最初の試合で私の前に出てきてしばらく戸惑っておられたのは…?」
 斎藤は内心舌打ちした。あの試合で斎藤が足を止めた時間は千鶴のような武に明るくない少女にまで見抜かれるほど長かったということだ。
「お前が影響したとでも思ったか、自意識過剰だ」
 出た言葉が思いのほかきついものになった。
 言い過ぎたかと悔やんだが、佇む千鶴は儚げに「そうですね、すみませんでした」と微笑んでみせた。しかし先ほどよりも瞳が潤んで見える。
 その健気さがよりいっそう、目の前の彼女と、朝方の夢をダブらせる。
 夢の中の彼女と、ここにいる彼女、その髪と肌の匂いや腕に収めた感触は果たして同じものだろうか?
 理性が同じはずがないと告げる。
 夢は斎藤自身が考え出したもので今ここにいる千鶴と被せていいものではないと。
 理性以外の何かが同じだと告げる。
 自分は彼女を知っているのだから、その腕に納めてみればいい。彼女は自分のものなのだと。
「―っ」
「斎藤さん?」
 葛藤して千鶴から目をそらしたのだが、それを千鶴がのぞきこんで来る。
 会った当初から意識の隅に残った斎藤を見つめる千鶴の瞳。
 それに吸い寄せられるように、斎藤は千鶴の体を抱きしめた。
 一瞬の驚きと喜び、指に絡む髪や細い肩の感触は夢と寸分たがわなくて、赤い唇の感触も確かめたくなる―
「あ…」
 腕にこもった力は千鶴には若干強かった。漏れた声で我に帰り斎藤は突き放さんばかりの勢いで千鶴から身を離す。
 千鶴が声を上げなければ、そのまま唇まで奪っていたことだろう。
 恋仲にもなっていない、年下の少女にそんな真似を仕掛けたことを深く恥じる。
「すまないっ」
 斎藤が左手で紅潮する顔を覆いながら詫びた。これでは斎藤のほうが千鶴に避けられることになるだろう。
「いえ…少し驚いただけですから」
 途切れがちに返答する千鶴から、彼女がどんな感情を抱いたか推測する。
 拒絶はされていない。しかし、これまで通りの関係を続けられるか…。
 今のことは忘れて欲しい。そう言う前に道場の方から大声が聞こえ、騒がしくなった。
「…どうしたんでしょう…?」
「わからない。戻ろう」
 道場に駆けつければ平助や沖田が広間から横の部屋に移動しようとしているところだった。
「どうしたんですか?!」
 千鶴が問えば平助が神妙な面持ちで応える。
「新八っつぁんが倒れて目を覚まさないんだ」


<戻る   続き>
*----------------------------------------
14とここまで書いた15はセットで更新するつもりだったので やっとできたって感じです。
特に触れられたことないですが誤字脱字について宣誓しておきます。
うっかり体質なんでけっこう残っていると思います。
あれば読まれる方の通りがいいように脳内変換して読み進めて下さい。