降る雪に願えるなら 10
よく晴れて、空気が冷たく澄んだ日だった。
斎藤は左袖をまくって腕時計を見る。
今出ても約束の時刻よりかなり早く店に着くことになる。時間を無駄にすることを彼は好まない性質だったが、この日は店で約束の相手を待って呆けるの一興と下宿を出た。
冷えた鉄製の階段を下りて愛車を置いている駐車場を目指す。
斎藤の下宿先は駅に近いがその近辺の駐車場は料金が高い、わずかの金も無駄にできなかった頃から引き続き、彼は自宅と駅から離れた閑散とした所の駐車場を使用している。
付近の通りは住人の気配が薄く、街灯もまばらな通りだが、斎藤は歩きながら常と様子が違うことに気付いた。
古びた木造の建屋と建屋の間、住人くらいしか通らないような細く狭いその隙間に息を殺した人がいる。
一ヶ所だけでなく通りを挟む家々のその狭間それぞれに。
三、四人だろうか、通りを監視しているようだ。
実害がなければ特にかまう必要もない、自分には約束があるのだから。
ところが判断して斎藤が通りに踏み込むと闇からのぞく気配が一変する。
すぐにでも飛び掛ってきそうな圧迫感がまとわりつくのだ。
実害がないどころか気配たちが自分と無関係ではないと察した斎藤は、密かに左腕に力を込めて道を歩く。
四人で一気に囲みこむのは相手を確実にどうにかしたいときに有効な手だ。
殴り倒すにしろ、捕らえるにしろ、あるいは―斬り殺すにしろ。
四人のいつ襲ってくるかわからない人間に囲まれて、しかもそれに気がつくなど普通なら戦慄を覚えそうな事なのに斎藤は高揚する己を感じていた。
その戦法をよく知っている。だから対処の方法もわかる…根拠を答えられないのに確信があった。
やがて包囲の縮まる時が来る。二人の男が滑るように斎藤の前方に現われる、が斎藤は握った左拳を大きく振って前方右の男の顔に一撃を見舞った。
「がっ!!」
殴られた男は向かって左側に倒れこみそちらの男の邪魔をする。
その隙に斎藤は前方を阻む残りの男の腹に右肘を入れた。
後ろが追いつく前に前方はがら空きになる。
斎藤は駐車場と道を隔てる低いフェンスを飛び越えて自分のバイクに駆ける。
後ろから追いすがる足音は四、五人分はあった。
普段ならば斎藤がこれを突破するなら相手を単車で跳ね飛ばしての強行突破しかありえない。しかし斎藤にとっても、相手にとっても幸運なことに、この時の斎藤のバイクに備え付けられているものがあった。
一本の木刀が。
本当に、借りてきたのは正解だったな。
武芸大会の賞金と己を守るために借りた一振りだったが、後日開催元に返送しようと包んでバイクにくくりつけていたそれを手に取り、茶色の紙を引きちぎって布袋から出す。
斎藤を狙った男達の呻き声と木刀が木刀らしくない鋭さを発揮したのにほぼ間はなかった。
紫紺の髪が風になびく。それは今日の風が強いからではなく、斎藤の身が空気に対して激しくぶつかっていく為だ。
法定速度の違反もいい所だと舌打ちする。
が仕方ない、後ろからは黒い色をした乗用車が斎藤に追いつくため、これまた速度違反で走ってきていた。
警察車両に採用されているその車種相手にカーチェイスをしていてもじきに追いつかれる。
車の走れない細い道に入りもしたがやがて追いつかれた。
斎藤の中に焦りが生まれる。
もう約束の刻限なのだ。
待っている人がいる。
その信用を失いたくない人が。
奇妙な追っ手を撒いてたどり着かなければ。
目的地付近の細い道でバイクを停めると斎藤は目立たない狭い道を選んで約束の店を目指す。
しかし事態はそう甘くはなかった。
T字路に差し掛かったとき、背後から、先の左右の道から人が来るのを悟った。
突き当たりの壁を背にして立てば合計十はいようかという男達に囲まれる。
木刀一本で、切り抜けられるか。
狭い道が幸いした。一度に襲ってこれるのは各道から一人ずつ、三人が限度だろう。
注意深く耐え続ければ、活路がないわけではない。
囲まれても余裕があるよう相手に見せ、向かってくる男達を木刀で凪いだ。
気を失う程度にとどめて数を減らせば黒服の男達は懐から黒い筐体を取り出して手に握りだす。
スタンガンだろう護身用のものにしては大きめのそれ。
このような怪しい人間の取り扱う品なら少し痺れる程度の威力ではないはずで。触れることは致命的だ。
しかし間合いは木刀が上、斎藤は小手を打って男達の手からスタンガンを離し宙に浮いたそれらを木刀で弾いて男達に向かわせた。
当たって倒れこむ者もいればさらに襲いくる者もいた。けれど斎藤は彼等を着実に仕留めあげ、ついに己以外の輩を倒す。
本当に全員気を失ったままか注意深く探りながら斎藤は男達の体が折り重なる小道を後にした。
入り組む道を走って斎藤の目に目指す店の明かりが映る。
腕時計を見返すと約束の時間から一時間が経っていた。
まだ、彼女は待っていてくれるだろうか…。
一度だけ会った姿。二度電話越しに得た声を思い出す。
彼女なら、待っていてくれるのではないかと思う。
遅れたことを怒るわけでなく、ドアをくぐる自分を見つけて淡く微笑み、遅れた理由を心配して………。
遅刻に関してはバイトが遅れたとかまっとうそうな理由を言った後、この話は笑い話として話してみようか。本気に取ることはないだろうがそれでいい。
今まで三度、少女との間に流れた時間は他愛ない話をするには殺伐としていて会話はすぐに途切れてしまっていた。だから今回は冗談めいた話を種にもっと彼女と交流を図り直したい。
硬く、切なげな表情ではなく打ち解けた微笑を浮かべる彼女を想像して斎藤の胸に熱が宿る。
見たことのないはずのその表情をありありと浮かべられることに首をかしげながら店の横を歩いて入り口を目指す。
ところが店の横を数歩ゆくと斎藤の胸には今しがたの夢想を悔いる気持ちだけが残った。
指定した店は道に面した壁がガラス張りになっていて外からでも中の席が一望できる。
そこに千鶴の姿はなかった。
千鶴についている二人も同じく姿はない。
一時間も遅れたのだ。斎藤からの後日の連絡を待って帰ったのだろう。
しかしここで帰って連絡が二度とない可能性があっても、待ち続ける価値はないと判断された、そのことが斎藤の心に虚しさを運んでくる。
必死そうに見えたが……所詮その程度のこと、か……
いつの間にやら斎藤にとって『千鶴と会う』ことはいないなら帰る、で片付かないほどに重くなっていた。
だから自分のように突発的な事象で遅れているその可能性にかけて店内で待とうと片足を踏み出す。
すとん、
斎藤の左手から木刀が滑り落ちた。
アスファルトに当たってカラコロと足元で響く音がする。
俺が……剣を落とした?
ありえない、あれくらいの立ち回りで腕が疲れることはない。
疲れてもないのに剣を落とすなんて命取りだ。魂でもある剣を――
斎藤は額を押さえて地面に落ちた木刀を見た。
間違いなく木刀だ。剣ではない。
木刀を刀と勘違いするなんてどうかしている。
気を張りなおそうと努めると目前の暗がりに人影が揺らぎ人の気配を漂わせる。前だけではなく横にも。
そしてすぐ背後にも。
倒さなければ、倒される。
木刀を拾う間もなく拳を振ろうとした斎藤の首に手刀が入った。
受けた斎藤自身が見事と感心した一撃はその意識をすばやく奪うことに成功した。
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久々に書くのが楽しかった回。
筆進むのが早かった。
やっと斎千らしくなってきました。
折り返し地点は過ぎた…かな。